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東京の告別式、大阪の告別式・・・ [健康]

私は、東京生まれの東京育ちで、今は横浜に住んでいます。

私の母は横浜生まれの横浜育ちで、8年前に癌で他界しました。

私の妻は大阪生まれの大阪育ち、母は、一昨年、同じく癌でなくなりました。

そこで、私たちは、東京での告別式、大阪での告別式をし、結婚式同様、大きな違いがあることを身をもって体験しました。

■東京での告別式

私の母は、入院先の病院で、消灯後30分程度の時刻に息を引き取りました。(21時30分頃)

幸いにして最期に立ち会うことができ、それからの病院での処置を体験しました。

個室に入っていましたので、主治医も駆けつけてくれ、最期を看取っていただきました。 消灯後でしたので、病棟は暗く、静かでした。 看護婦さんに清拭していただき、(母は入れ歯でしたので)歯を入れ、硬直後、口が開いたままにならないよう、ガーゼであごを固定していただいていました。 お化粧も、いつも母が使っていた化粧品で、看護婦さんにしていただきました。 おかげさまで、穏やかで、いつもの母の寝顔でした。 時間は確か、23時を廻っていたと思います。 霊安室に行くのかな と思ったら、婦長さんが、このままこのお部屋で朝までおやすみになってください と、言葉をかけてくれました。 真夏でしたので、部屋のエアコンを最強にして、そのまま朝まで、病室にいました。

翌朝8時、寝台車が来ました。 朝8時頃となると廊下には患者さんも多く、他の患者さんに気づかれないよう婦長さんが気を利かせてくれ、エレベータも専用で使わせてくれました。

私の両親は公団の団地に住んでいますので、集会所を使わずに、葬祭場で近親者だけの密葬という形を取りました。 

寝台車には、母の遺体の横に私が座り、葬祭場まで行きました。 日が悪く、すぐにお通夜・告別式ができず、葬祭場の冷蔵庫のような安置室に一泊し、通夜、告別式 という段取りになりました。

お通夜・告別式と段取りが進み、火葬も済み、お骨を拾いました。 火葬釜から出てきてすぐに、係の人が大きな磁石でお骨の上を一回りなぞりました。 金属が入ってしまうと、そこからさびが出て、骨壺を傷めてしまうそうです。 皆でお骨を拾い、最期に係の人がのど仏の骨をひろって、残ったお骨、灰を、きれいにとって、すべてを骨壺に収めた後に、頭蓋骨でふたをするように置き、ふたを閉めて終わりました。 お経を上げていただき、自宅に戻りました。

■大阪での告別式

義母も、病院で最期を迎えました。 夕方でしたので、すぐに家内を大阪に向かわせ、遺体が自宅に着いたのとほぼ同時に間に合いました。

遺体は自宅の1階に安置され、一夜を過ごしました。

翌日11時頃に、私も大阪の実家に着きました。 お昼頃、葬儀社の寝台車が来、遺体を葬儀場まで運びました。

この辺から、東京の私は初めてのことが続きました。

葬儀場について一段落すると、「湯せん」をするからお集まりを と、タイル張りの部屋に集まりました。

そこには、バスタブと、バスクリンをそのまま1本入れてしまったような濃い緑色のお湯と、バスクリンのにおいが満ちあふれていて、すでに、母の遺体が入れられていました。 びっくりしました。

清拭ではなく、お風呂に入れて、頭を洗ったりです。 今回の葬儀担当の方がすべて一人で、素手でお風呂に入れてくれていました。 死後硬直した遺体が、お湯にはいることで少し柔らかくなるらしく、皆、手をさすったりしていました。 私はできなかった。 バスクリンがあれだけ濃かったのも、多分においと、遺体から剥がれる角質がわからないように との配慮だと思います。

30分程度で「湯せん」は終わり、次に呼ばれたときはすでに化粧をされて、きれいになって棺桶に寝かされていました。 ただ、私の母の時のように、口が閉じておらず、これが私はいやでした。

通夜・告別式はほぼ同じような流れで行われましたが、告別式が始まる前、祭壇の前に、あたかも結婚式の時の集合写真と同じく、喪主が最前列に座り、段々に参列者が集合し、記念写真(?)をとりました。 あり得ないですね。 しかも、その後もカメラマンが、最期のお別れで、棺に皆で花を入れているところであるとか、喪主が挨拶をしているところかを、ストロボを使って写真に納めていました。 これは、失礼極まりない、何のために写真を撮っているのか、全く理解できない というより、やめてくれ といいたい気持ちでした。

火葬場に向かい、火葬釜に入りました。

お骨を拾うときになって気がついたのは、骨壺がとても小さいことでした。

案の定、皆でお骨を拾う段になり、入らない骨はポキッと折っていれたり、見ていられないようなかわいそうな状況になりました。 係の人が最期にのど仏を入れ、ふたをしました。 まだ、お骨も灰もたくさん残ったままでした。 磁石の儀式もなしでした。

その、残ったお骨は、あっという間にまとめて別の箱に入れられてしまい、他の方のお骨も一緒になって、市内のお寺(名前がよくわからなかった)に合同で(?)入れられてしまうそうです。

後で葬儀社の方にいろいろと聞いたのですが、関西の骨壺は、これが標準の大きさで、お骨はすべて入れるようなことはしないそうです。 また、「湯せん」は、この葬儀社が始めたことらしく、最期に近くなると頭もなかなか洗ってあげられず、遺族からは喜ばれている とのことでした。

 

以上が、東京と大阪での違いです。

「湯せん」には本当に驚いたのと、お骨をすべて納められない というのが、寂しく感じました。

結婚式同様、葬儀も、地方で違うことを身を以て知りました。

 

 

 


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【うつ病のこと】 ~2~ [健康]

今回病気になったきっかけの事です。

私は元々、社会人になってから今回退職するまで、病院を出入りするメーカーの人間でした。

その中で最も長く勤めたのは、医療機器(心電計・脳波計や、モニター等)のメーカーの営業をし、毎日大学病院や救命センター・オペ室等に出入りしていました。

今回退職したところも、医療関係のメーカー(ソフトベンダー?)でしたが、ハード機器は市販品で、開発したソフトの販売や、ネットワークのコンサルティングを主体とした営業でした。 
いわゆるベンチャー企業で、退職時の社員数は、入社時のほぼ倍(3年間で)と、規模は急成長していた会社でした。

私は、アプリケーション開発というのは全く無知ですし、ネットワークのコンサルティングということも、うちの中のPCをLANでつないで・・・程度なら何とかこなせますが、正直なところ、、「自分は嘘の説明をしていないか・・・」と毎日冷や汗をかきながら客先で仕事をしていました

ある病院との商談で納期が間に合わず、自分でもできる限りの誠意は見せたのですが当然受け入れられず、それまで20年近くになる営業で、初めて放射線技師の前で土下座をし、でも「もう来なくていい」と、担当替えを宣告されました。

また、会社でも、トップから、「君は自己満足のためだけに仕事をやっている」と、エキセントリックな言い方をされ、この二つがきっかけで、海馬が止まってしまった との診断でした。

休職に入りました。

以降、何に対しても興味が無くなり、無気力、夜は寝られず、家族が皆楽しそうにテレビを見ながら話をしている、食事をしている 事にも入っていけず、というより、ばかばかしくていらいらし、何度か静かにしろ と怒鳴ったこともありました。 
また、PCに触る気も起きず、何もかも嫌になってしまいました

ただ、救われたのは、もう10年近くになりますが、週末はスポーツクラブに通っていて、ここで体をいじめて汗を流してから泳ぐのが唯一の楽しみでした。 
全く仕事関係なしの顔見知りとの会話は気持ちに潤いをくれました。 
それと、車がいいおもちゃになってくれたのも幸いでした。 
この二つがなかったらどうなっていたか 想像できません。

前にも書いたように、私は、私をよく知ってくださっているドクターがいたから、2週間に一度、車を2時間強運転して通院し、話を聞いてもらい、カウンセリングをしていただいています。 これは今でも同様です。

ハローワークに通所していることも前述しました。

ただ今回は、職種が定まらず、自分でも困惑しています。

というのも、学生時代のあることがきっかけで、「人の命のそばで仕事をしたい」という信念をずっと持ち続けてきました。

13年前の阪神淡路大震災の時も、そのときは東京の本社に所属していたのですが、神戸支社と連絡が付かず、18日に先発隊が入り、第2陣として、23日から志願して現地入りしました
(岡山まで飛行機、新幹線で姫路に入り、ここをベースとして1週間現地サポートしました。)

それが、今回うつ病になってしまった前述の事が原因で、その信念を持ち続けることに少し疲れてしまってきているのが正直なところです。 

こんな気持ちになるのは初めてです。 

自分がどうしようもなく惨めで、今は何をしても自信が持てずこんな旦那をもつかみさんにも申し訳ないしこんな親父を持つ子供らにも申し訳ない思いが続いています。 

今日・明日と、長男がセンター試験です。 
これから来月まで、大学受験期間に突入です。 
そんな大事なときに、親父が平日もうちでうろうろしていては、しゃきっとしないですよね。

・・・そんな思いで毎日を過ごしています。

うつ病については、また改めて書くことにします。

 

 


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【うつ病】 [健康]

皆さんは、うつ病のことを、どれくらいご存じですか。

いろいろな言葉で修飾されています。

心の風邪」「まじめな人がなりやすい心の病気」・・・

「心の」が付くところがつらいところです。

見かけは健常人と全く変わらないから、職場では、「さぼっている」「手抜き」・・・とみられ、休職してうちにいても、近所の目が気になり、結局、暗くなってから買い物に出たりして気晴らしをするしかない。

私は、これまでに2度、うつ病で苦しんだ経験者です。 
10年ほど前に初めて経験し、約1年前からまた経験しています。 
今も、完治した状態ではありませんが、ほぼ、頭の中は正常稼働するようになりました。

幸いにして私は、私より若い精神科のドクターと仕事で懇意にしていただいていたので、2度とも、このドクターに助けられました。 
初めての時は、「一般の患者ならすぐに入院観察しないと、いつ自殺してもおかしくないほどだった」と、後で聞き、自分でも驚きました。

2度目 今回は、やはり仕事上の過度のストレスで、「海馬(かいば)」が止まってしまった との診断でした。

海馬が止まると、いろいろと日常生活で困ることがよくわかりました

右手・左手で別の動作ができない、
階段を下りるのに、頭の中で「左、右、左、右・・・」と考えながらでないと降りられない、
数が数えられない、
自分の名前が書けない、というより、字がうまく書けなくなる、
全く眠れない、
何に対してもほとんど興味が無くなってしまう・・・等々、客観的に見ても、なかなか信じられない状況が続きました。 今でも薬は飲み続けていますが、こんな症状は何とか無くなってきました。

心の病気は、一度かかったら、自分で自分の限界がわかるから(これ以上がんばっちゃうと、またなりそうだ・・・)、ある意味「免疫」ができて、何度もかからないと思っていましたが、そんなこと無いんだな というのも今回よくわかりました。

 


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